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ブルーノ・タウトと桂離宮
泣きたくなるほど美しい ・・・ !
ブルーノ・タウトは語る
「…今日までの憧憬は余すところなく充たされた。--泣きたくなるほど美しい印象だ。
……背後に無限の精神を蔵しているこの関係の豊かさに最初は息づまるばかりの感じであった。
……なんという高雅な釣り合いであろう。・・・すべてのものは絶えず変化しながらしかも落ち着きを失わず、また控えめである。…眼を悦ばす美しさ、眼は精神的なものへの変圧器だ。日本は眼に美しい国である。……」  (『日本 タウトの日記』、九三三年五月四日、篠田英雄訳)
見学許可
大丸社長であった下村正太郎により特別拝観許可を得て、自由に拝観できたブルーノ・タウトはラッキーであった。当時、一般人の内観は許可されておらなかったからである。
ブルーノ・タウトを感銘させ、桂離宮を、日本を世界に広しめた背景には、上野伊三郎、水原徳言らの努力が大きく影響している。
ブルーノ・タウトの来日が決まった折、上野伊三郎はどこを案内するか苦悩した。タウトは、誕生日になると訪れた場所の最も良い建築を見ることとしていた。相談を受けた竹内芳太郎氏は、「そこでどこを見学させるかが問題である。彼の案では以前アメリカからノイトラが来た時、日光へ行ったり、岐阜の鵜飼を見せたりしたが、一般観光客ならともかく、建築家はそれでは喜ばない。ましてタウトは審美的な鑑識眼をもっているし、日本住宅の簡素な、そして合理的な室内装備に感服し、かなり高く評価もしている。日光などを見せたら幻滅を感ずるだろう。だからまず、何より日本の芸術の真髄を最初に会得させるために、茶の湯と茶庭や茶室を見せる。裏千家が本格的なお点茶の作法を見せてくれることになっている。それから能、これは友人の観世流の家元がひきうけてくれた。こうしておいて京都の寺々の、特に庭園を案内したい。それから建築だが、まず伊勢神宮へ、そして桂、修学院の両離宮を見せる。これが京都でのおもなる計画だが、やがて東京へ来るから、その時の相談をしたいということであった。この上野の計画には全く賛成であった。」と後日に述べている。(竹内芳太郎『年輪の記・ある建築家の白画像』 しかるに タウトの桂離宮見学が実現し世界の名だたる存在となった。


感動の桂離宮
ブルーノ・タウトは桂離宮を2回訪れている。
1回目は昭和8年5月4日、下村正太郎、上野伊三郎夫妻、ガルニエ夫人と共に。2回目は昭和9年5月9日、おそらく上野伊三郎のみの同行と思われる。
「2回の訪問を綜合した形で残されたものが2つある。1つは、『画帖 桂離宮』で岩波書店から復刻されている。
もう1つは、『永遠なるもの』(ダス・ブライベンデ)である。タウトが訪問の記録としての日記だけでは充たされなかったことが注目に値しよう。
「桂は記録を超え、哲学的・美学的に結晶化した訪問の記憶へと昇華してゆく。」
  (ちくま学芸文庫 高橋英夫著 「ブルーノ・タウト」より引用)

ブルーノ・タウトは『画帖 桂離宮』のなかで「部屋そのもの調和的な落ち着きは、言葉ではとうてい言い表すことができない、わずかに用材、塗装、極めて控えめな襖絵、また襖絵のないところでは襖紙―― これらの見事な調和を語るのがせいぜいである。外国人の目にいかにも珍しく思わ れるのは、障子を閉めきった部屋には深い静けさを湛えているのに、障子をあけると 絵のような庭があたかも家屋の一部ででもあるかのように突然!私たちの眼の前に 圧倒的な力をもって現れ出ることであ
る。一般に部屋の壁面は庭の反射を映じるようにあらかじめ考慮せられている。そしてこのことは部屋全体にとって支配的な意味を  持つ、庭の光はくすんだ金銀の色の襖紙に強く反射するからである。」と書いている。
 


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