見学者の声

20070510

ふと昔のことを思い出したので、過去の日記を書いてみる。

初夏の富士山を楽しんだ僕は、箱根をひと走りしてから熱海へと向かった。熱海駅のパーキングにクルマを入れて荷物を手に夕暮の坂道を昇った。塀に挟まれた細い道は少し上るとすぐに下りになる。海へ向かって降りる下り坂はすでに日も落ちてすっかり暗くなっていた。地図を手に目的の家を探すがその場所には竹やぶのみ。思わず向かいの大きな邸宅の呼び鈴を押すがそこはある宗教の教祖の別荘で、僕の目指す家は向かいだと教えられた。振返って竹やぶ。暗い闇をのぞき込み、その奥に灯があることを見つけた。僕は黒い竹やぶに入って行った。

薮は深くはなかった。海を隠すほどの竹やぶが暗い影をその家に落としていたのだ。古い数寄屋造りの瀟洒な日本家屋。カラカラと戸を引いた。こんばんわぁ。遅くなりましたぁ。ちょっと変わったプランで玄関はまるでホワイエ。土間のソファの横に古い本がたくさん。右手に座敷があり、座卓には料理がずらりと並んでいる。「はいはい、お待ちしておりました」

管理人夫婦に2階の部屋に案内してもらう。細い柱、華奢な建具、しっとりとした土壁。とても質素だが贅をこらした家だ。1階に降りると座卓の料理が消えている。ソファで古い本を読む。建築と芸術の本ばかり。この家について研究された資料のファイルも見せてもらう。日大の古い研究資料だった。ひととおり家の中を見せてもらい、座卓に戻るとふたたび料理がずらりと並んでいる。どれも作り立てのアツアツ。信じられないくらい美味かった気がする。

夜が早い。2階の個室に戻り、窓からは、初島と月。船がゆっくりと移動していく。熱海駅から5分と歩いていないのにとても静かだった。夜風が心地よい。疲れていたのと料理が美味かったのと恐ろしく静かだったのとで、とても深く眠った。静かで美しい夜だった。

朝食を座卓でいただき、管理人兼料理人の主人と話しをした。虹色に輝く特殊な瓦は古い中国製のもの。すでに入手不可能でこれだけで骨董価値があるものらしい。この家のオーナーは補修用にかなりストックしているそうだ。経年劣化で割れてしまうからだ。風呂は大谷石。不思議なぬくもりのある風呂で、あふれたお湯がいつのまにか元の量に戻っている。そしてそのお湯はいつまでたっても汚れず新鮮なまま。素晴らしい朝風呂。風呂から見える清楚な日本庭園もまた美しい。

風呂の後、いよいよ地下室に降りる。この地下室こそが来訪の目的だった。ギシギシときしむ古い階段を、竹製の手すりを壊れやしないかとヒヤヒヤしながら掴んで降りる。地下室の天井には無数の裸電球。フロアは貼り方が面白いパターン。どれもとても痛んでいる。あまり良い状態とは言えない。かつての主人はここで卓球をしたらしい。隅に卓球台が畳んであった。平面図的にちょっとゆがんだ空間を奥に進む。ここは崖の人工地盤の下に造られている。さっきの日本庭園の下である。

地下室の一番奥には不思議な階段があり、数段の階段の上には一人分の物見台がしつらえてあった。かつてはここから海と初島を眺めたらしい。僕も昇って眺めてみる。隣の国有の土地から生えた伐採不可能な竹やぶしか見えなかった。それでも僕はCONTAXでたくさん写真を撮った。聞けば階段は斜めになったRC基礎をカバーするための苦肉の策だったそうだが、この単純で唐突な舞台が陰鬱な地下の空間を海を眺める装置へと変貌させている。海に向かって部屋は開かれ、さらに唐突な階段が下方への視線を拡大して海をグッと自分へと引き寄せているのだ。

昼も近くなり、管理人夫婦に厚く礼を陳べて僕は熱海駅に向かった。この家の名は日向邸。
日本家屋の設計は渡辺仁、地下室の設計はブルーノ・タウト。とても素晴らしい家だった。

楽園  関心空間  2007/05/10
http://www.kanshin.com/diary/1140013

熱海市が寄付を受ける前にご利用された方の感想です。当時の雰囲気が伝わってきて面白い。(keep+1)
□ブルーノ・タウト

そしてブルーノ・タウトですけれど、たった2年間ですが亡命する途中で日本に寄るのですが、その間になんと言っても「日本美の再発見」という本を書き、桂離宮を絶賛するのですが、よく言われているのですが、桂の評価はこれ以前にかなり定まっています。当時若い建築家達の中で、桂はモダニズムの観点から見てもいいよねという評価があったので、タウトが日本に着いた翌日に桂離宮を案内しています。ですから当時の日本人の若い建築家からすると、タウトを起用して桂を外からの目で評価するという狙いが大いに当たったのだと思います。そしてなんと言っても日光将軍と天皇という二項対立があり、昭和初期当時のやや軍国主義的な傾向に傾く時期にぴったり合ったものですから、大ベストセラーになりました。ナチスに追われた建築家だったので、ほとんど建築家としての仕事はなかったものですから、唯一作ったのが日向別邸です。面白いのは、後で写真が出てきますが、数奇屋と色彩ということです。私が20年ほど昔に最初に日向別邸に行ったときは物置状態だったものですからあまり気付きませんでした。その時は雨戸を閉めたままで何だか気持ち悪い空間だと思ったのですが、5〜6年くらい前にテレビを入れたときに初めて、朝一番の9時に行って窓を全て開けたら素晴らしかった。太陽が真正面に入り、壁が真っ赤になるという、非常に鮮やかな赤だった。当時の考え方からすると、あれだけ日本を回って、日本建築をゲテモノ扱いしたタウトが、何だあの赤は、ゲテモノじゃないかと、自分の建物もゲテモノじゃないかという批判をされているのですが、実は数奇屋というものは本来すごく派手なもので、我々が知っています金沢の群青閣の群青もそうですが、あのような鮮やかさはむしろ数奇屋なんですね。タウトが数奇屋というものはこういうものだと名言をしていて、逆に当時の建築家たちはモダニズムの観点から伝統を評価しているということですから、むしろ明るい色彩を抑えた数奇屋。モダニズムの目から見た数奇屋という所が、この数奇屋と色彩の関係が逆に証左されているのではないかという気がしています。タウトは大変気に入って、山口文三さんの関口邸茶室なんかも絶賛しています。

これが日向別邸の上の方ですね。母屋は渡辺仁の設計で清水組の施工です。前に屋上庭園がありここからの海の眺めがとてもいいのですが、この地下部分に遊べる空間を作って欲しいと言うのが日向さんの依頼で、そのために地下空間を作りました。

母屋から降りてくるとここに出てくる。この辺は全て竹で出来ている。タウトが日本に来て学んだこと、特に桂離宮へのオマージュが盛り込まれている。

 この写真は一番手前が広間、その奥に応接室、一番先に和室という3つの違う空間が長く繋がってくるという大変面白い空間で、天井にしろ、壁にしろすごく凝っている。タウトはおそらくあちらこちらで学んだ事をここで学習する、あるいは復習するかのようにこの設計を行なったのだと思います。手前は卓球をしたりダーツをしたりする空間で、その奥には応接セットがあり、有名な階段があるところです。この階段は全て寸法が段毎に違っている、つまりこれは登る為の空間ではなく椅子で、ここに座って海を眺める為に作られて階段です。そして一番奥が和室になっています。タウト風に言うと、一番手前がベートーベンでその奥がモーツァルトで、一番奥がバッハだというイメージを空間に置き換えて作ったという言い方をしています。

これがタウトの赤です。当時の人々にしますと日本にはなくドイツに注文をしたそうです。ドイツ製の布地を使った赤の表現になります。表現派風の色彩と数奇屋風の意匠が合わさったものということになります。
第9回シティライフプロパティーズ 日本建築集住研究サロン

http://www.citylp.jp:80/salon/第9回 サロン




ブルーノ・タウト「熱海の家」 〜旧 日向別邸〜
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熱海駅からさほど遠くない相模湾を眼下に望む高台に、旧日向別邸は建っています。屋上を庭園とする地下室を利用してつくられた離れは、日本の文化と風土を愛したドイツ人建築家ブルーノ・タウトの設計によるもので、タウトが日本に残した唯一現存する作品です。【公式ガイドブックより】

先ほどワタリウム美術館で開催されていたブルーノ・タウト展を見て、改めて実際の空間を体験してみようと、静岡県熱海市にある旧 日向別邸に行ってきました。
部屋に入るカーブを描いた階段、竹の手すり、寄木の床、葦の障子、細竹を丁寧に隙間なく釘打ちした壁、さらには竹を鎖状に編んだランプなど、日本的な素材を駆使した空間をしばし堪能。
中ほどの洋風客間では、真紅の絹に覆われたタウト独自の空間を体験することができました。景色を眺める上段の間にあがる階段は、その細やかな納めから家具として造られた事が分かります。眼前の初島を望む海原は、昔は景観をさえぎる樹木も無く、そのロケーションは雄大だったと感じます
動乱の時代、極東の地でタウトは、どのような事を思い、この空間を設計したのか、そんな事を考えてしまいました。
ベルリンではタウトの設計したジードルンク(集合住宅)の修復が進められ、70年余ぶりに当時の鮮やかな色彩が忠実に復元されました。そして、現在ユネスコの世界遺産として登録が予定されているそうですが、日本で唯一のタウトの空間もまた、再評価されることでしょう。

関心空間
http://www.kanshin.com:80/keyword/1151390

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