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ブルーノ・タウトの来日
〜〜多彩な色、緑、なんという景色だろう、かつて見たことのない美しさだ〜〜  タウトの日記

ブルーノ・タウトは、ドイツのケーニスベルクに生まれの表現主義の建築家として、「鉄の記念塔」「ガラスの家などで国際的評価を得る。
1933年、戦火のナチスドイツからの逃亡が、日本インターナショナル建築会の招待の形で来日、日本各地を巡って古建築を見学、日本の伝統建築を高く評価した。特に「桂離宮」については絶賛し、世界にその名を広めた。在日中は、群馬県高崎市において工芸を指導し、多くの工芸作品を発表した。「日本美の再発見」「ニッポン」「日本文化私観」「日本の建築」他、日本を紹介する数々の書籍も発刊し、世界に日本を認識させている。滞日中に設計し施設は少なく、現存する唯一の建物は熱海市に存在する「日向別邸」(重要文化財)のみである。

上野伊三郎は、「日本インターナショナル建築会」を結成し、広く国内外での建築運動を行った。その一つに、ウィーン滞在中に得た海外でのネットワークも駆使し、外国会員にブルーノ・タウトやE.メンデルゾーン、J.ホフマン、P.ベーレンス、W.グロピウスなどを加えて1929年8月には機関誌『インターナショナル建築』も創刊するなどの活動がある。

一方、ブルーノ・タウトは当時、ナチスより左翼系の進歩的な建築家としみなされていた。怪火により国会議事堂が炎上した原因を、ヒトラーは共産党員によるもと決め付けて弾圧にかかった。逮捕リストに載っているとの情報を得たタウトは危険を察知して日本への亡命を図ることとなる。
1993年3月にベルリンを離れ、同時にモスクワを離れたエリカと共に、ボーナッツの助けをかりて日本へ旅立っ。以前より交流していた「日本インターナショナル建築会」の招きに応じたいとの思いもあり決意しのであった。

来日の時
スイス→フランス→ギリシャ→トルコ→ソビエトを経て →5月3日福井県敦賀港(つるがこう)に入港した。

敦賀港は、1912年にはシベリア鉄道を利用して、ヨーロッパの各都市を結ぶ拠点港となり、欧亜国際連絡列車が運行され新橋駅(東京)と結ばれ「東洋の波止場」として繁栄していた。
ブルーノ・タウトと日本の出会いであった。ブルーノ・タウトは述べる。近づく日本を天草丸から眺めしみじみと語る。
ウラジオストック〜敦賀間の連絡船天草丸は、ゆっくりと敦賀港へ近づいていった。船上に立ったタウトは、初めて見た日本の印象を次のように日記に記している。
「昼、遥かに日本の海岸を望み見る。やや近づくと緑の山々。これまで見てきた景色とはまるで違った新しい国土だ。雨、なにもかも灰色に被われている。やがてまた緑の陸地が見え、前方には湾、そのうしろの明るい空、松の生えた島々、間もなく人港である。
多彩な色、緑、なんという景色だろう、かつて見たことのない美しさだ。虹のように輝く水、まったく新しい世界である。敦賀湾、赤と白の閃光を放つ二基の燈台。敦賀の街が低く見える。その前方には村落、一面の銀鼠色、ところどころに輝くばかりの白。『〔日本 タウトの日記〕1933年5月11日、篠田英雄訳』

「日本インターナショナル建築会」から上野伊三郎、中尾保、中西六郎が出迎えた。翌日は京都で大丸百貨店社長・下村正太郎の出迎えをうけ自邸に招かれている。翌日の5月4日はタウトの53歳の誕生日。上野伊三郎の案内で桂離宮を訪れることとなった。






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