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タウトの日記 Japan(抜粋) 熱海編
  

         熱海滞在記

1935,7,19(金)京都から熱海へバスで多賀に着く。
日向利兵衛が熱海(春日町)別邸地下室増築工事を依頼したタウトのために、夏の避暑を兼ねて上多賀に小家を借りたもの。
1935,7,21(日)私達(タウトとヱリカ)が借りた上多賀の家は静かな入江に臨んでいる。
日向氏もすぐ近くに仮往居していて、夏の別荘にする為に、山中の農家をここへ移築中である。近所は漁師や農民の家ばかりだ。上多賀は、突堤のある小漁港で、海水浴場はここから10分ばかり先の入江である。私は風邪を引いているのでまだ海に入れない。昨日も終日床に就いていた。そんなこともあり、此処へ来てもう数日たったがまだ落ち着いた気分になれずにいる。三、四軒ある近所の家からは、子供達の甲高い声がしきりに聞こえてくる。恐ろしく蝉が多いのも、なかなか気になるものだ。しかし部屋はどこも開け放たれて非常に涼しい。黒い大きな蝶や、その他様々な蝶が家の中を通り抜ける。家の後ろは、緑の山々を背景にした入江である。庭の池には魚が躍り、晩になると海向こうの網代から、お祭り太鼓の音が梅を渡って聞こえてくる。大島は、ここから余り遠くない海上にある。昨年(1934)この島の三原山で火ロヘ飛び込んだ自殺者の数は約800人もあったという。
1935,7,25(木)この四日間で『日本の家屋とその生活』の第二章「新生活」を書き上げた。

1935,7,26(金)入江で海氷浴をする、殆ど波らしい波が立たない穏やかな海だ。私たちの生活は平安である。入江を半ばをかこんでいる高い緑の山々、その下は突堤と生州のある小港。漁師達はたいてい半裸体である、貧しい人達が多いのだ。蝉が鳴いている、濃紺色をした大きな蝶が海へ向かって飛んでいく。漁船の曲線が美しい。青緑色の澄明な海水の中で泳いでいる魚の群。潜水眼鏡をかけ、やすを手にした漁師が、潜りながら鳥賊を突きあげている。のどかな雰囲気だ。私達は日向氏の一家を除いてはこの村で唯一の避暑客らしい(一昨年の葉山に比べたら格段によい)。いま日向氏は、避暑用の別荘にする為に農家を(これはもと山地の地主の家であった)、ここへ移築しているが、こういう趣味はとかく近来の流行らしい。ともあれ大工達が、切り込んである用材を巧みに組み立てていく様を眺めているのはなかなか楽しいものだ。それにしてもまた随分難しい仕事だと思う。巨大な梁はまるでそれだけが宙に横たわっているような印象を与える。中央部に太い柱が二、三本あるきりで、外方の柱などはマッチの軸のように紙に細い。とにかく古い家屋を移築する過程は、そばで見ているだけでも面白いものだ。それにまたここで働いている大工さんは、みなひどく気のいい人達ばかりである。日向氏は、金持ちにしては気持ちのよい人柄である。
だが、とかくお金持ちというものは、この人でさえ、建築家を見ることあたかも靴磨きの如くである。私の熱海(日向熱毎邸地下室)での「建築」も、どうやら「覚束ない」ものになりそうだ。私たちの家はかなり広いし、また出来もそんなに悪くない。いかものの床の間と、(日本にしては)余りよくない釣り合いから推して、建築主は料亭の主人か旅館業者に違いないと見込んでいた。案の定、家主は東京で西洋料理店を経営している人だそうである。だがそれにしては、ひどく悪いものでない。たぶん風通しが上乗なので、涼風がやや汗ばんだ皮膚に快く触れる。それにまたこのところ、一般に涼しいとさえ言えるほどの陽気なので非常に爽快だ。空はしょっちゅう曇っている。晩方になると稲田に蛙が鳴き、潮騒が遠くから聞こえてくる。また別の側からは小川のせせらぎがさやかに通ってくるし、小湾の向こうには網代の燈火が点々と散らばって見える。八畳の居間は、こんな風に三方に開いているのである。浅黄色の蚊帳の中に寝そべっているのは、えも言われず快適だ。東京からそんなに遠くない所に、これほど気持ちのよい海村があるのだ。都会人といえば、ほんの私達だけである。田舎の海水浴場でしかないのに、まるでおとぎの国みたいだ。だがなんと言っても少々退屈である。今日は日向氏と、小船を雇って海上へ出てみた。発動機船が二隻並んで走っていたが、舟歌を歌いながら網を引いている猟師達は、いずれも半裸体か、さもなければ褌一つである。鮪(マグロ)漁の餌にする鰯を捕っているのだ。開けた海際に、景勝の地を占めている寺院があった。ここからの眺めは実に素晴らしかった。建築も優秀で、農民家屋の性格を具えている世界は美しい、そして結局は ----美しすぎるのだ。
私達の住んでいるこの家についても、建築の何たるかを看取することができる。ここには八畳の居間があり、これは洗心亭の座敷(六畳)よりも三分の一だけ広い。尤も座敷の中へ一畳分の床の間が出っ張っているから、本来の八畳よりもそれだけ狭くなっている。釣り合いは拙劣だし、壁の色にも落ち着きがない。だが私達の住む現代は、すぐれた建築時代ではないのだから、多くを望むのは無理であろう。要するにこの家の弱さは、思わせ振りな箇所が数多くあるということだ。私は京都で買った太い横縞の浴衣をしょっちゅう着ている。祇園会に京部の人達がよく着る柄だが、東京趣味を誇る人達は、女柄だと言って冷やかしている。   top

1935,7,31(木)日向氏に誘われて箱根に行く、同氏は箱根山中の強羅にも別荘をもっているのである。だがここも暑い。いったん宮の下に降りて富士屋ホテルで食事をする。ここは日本でも最上のホテルだそうである。宮の下から自動車で湖尻へ出た、途中の山景は実に素晴らしい、富士山も見た。道は登るに従って険しさを増し、草木も次第に乏しくなった。落ち込んだ噴火口跡(大涌谷)からは、所々に白煙が立ちのぼっていた。すごい景観である。湖尻から観光舟で湖を渡り元箱根に着いた。夕闇の湖畔の道を箱根神社まで歩いた。高い石段と、そばだつ老杉とは、よく知られた日本的な雰囲気である。そこに石造りの小社殿を見かけたが、扉と屋根だけは木造であった---稀らしい造りである。石段を登りつめると、いかものの本社殿のそばに、実に日本的な簡素極まる社殿があった。今夕は湖上祭だそうで、湖畔では神官達がその祭事を執り行っていた。楽師達は笛や和琴などを奏でている。いかにも清らかな美しい儀式である。やがて神事が終わるとこの人達は三隻の舟に分乗した。第一の舟は、祭主を初めとし神官達を乗せた簡素な屋形船である。第二の舟は舳先に彩色した鳥の形の船首を付したもので、これには楽師達が乗っている。また第三の舟はすこぶる多彩で、これは氏子総代その他を乗せている。どの舟も梢葉をつけた竹幹を何本となく立て、それに提灯が明るく燈されている。三隻の舟は、濃い夜霧のなかを湖心に向かって漕ぎだし、太鼓を交えた爽やかな音楽は、湖にボートを浮かべていた私達の方へ粛々と伝わってきた。神道の儀式は、今でこそ愛国的な目的や、また時には商売用にさえ利用されているが、元来は美的、芸術的なものである。しかしこういう文化の力は、やがてまた反文化的なものを克服するようになるであろう。湖岸には、外人達がいっぱい集まって見物していたが、どれもこれも鳥の顔そっくりで(私のだって例外ではあるまい)皆な同じように見えた。ひどい濃霧である、まるで雲の中にいるようだ。帰りのバスは徐行したり、時には停まったりしなければならなかった。しかし山を下るにつれて、さすがに霧も散り、夜空が明るく晴れ渡った。バスの中で、一人の外国婦人がアクセントの強い英語で、乗り合わせた外人達に彼女の新聞のことをしきりに喋り立てていた。その服装ときたら、腕を肩から剥き出しにした上着と、太股もあらわな短いズボンだけである(日本の小さな子供が、よくこんな恰好をしている)。日向氏は「あれはドイツ婦人ですね」と言う。私は恥ずかしくなって、いささかどぎまぎしながら「いや、事によったらデンマークかスェーデンの婦人ですよ」と言うのが精一杯であった。上多賀に戻る。

1935,8,1(木)恐ろしい暑さだ。ほんのちょっと仕事をしてもすぐ汗だらけになる。何か重たいものが身体にのしかかっているような気持ちだ。だからものの三時間と続けて仕事をすることができない。それに裏山から吹きおろしてくる熱風は、アルプスのフェーンさながらで、ひどく神経を苛立たせる。
美しい皮膚をしたトカゲをたくさん見かける。夜になると青蛙がぴょんと跳びのって、もっと私に近かずいたものかどうか思案している。(小林山から手伝いに来いるヤスコさん)エリカとヤスコさんの会話----例えば海を大きい、大きい水と言うが如くである。村の漁師や老人達は褌ひとつの真っ裸である。銅色に日焦けした若者達はネグロそっくりだ。そして魚のようによく泳ぐ。背丈が私と同じか、事によったら私よりも高くて、筋肉の隆々とした一人の漁師が、浜辺の石の上に引き上げられた漁船の下で藁を燃やしていた。めらめらと燃え上がる炎で舟側を軽く焦がしておくと、船のもちがよくなるのである。
ある晩、港に神道の祭礼があった。高張提灯を捧げた行列が続き、楽師が笛や太鼓を奏でている。二頭の大きな獅子頭は、胴になぞらえた浅黄色の布を後ろへ長くのばし、数名の若者がそれを被って歩いている。やがて白い垂だ紙をささげた幣束と供物とが、假屋に納められた。--すべてが海辺での行事である。白装束に黒い鳥帽子を被った40人ばかりの男の児達が、手にした白扇と棒とを巧みに捌きながら、笛と歌に合わせて舞っていた。非常にリズムカルな舞で、かつてトルコで見たイスラム教の托鉢修道士の群舞を思い出した。どの家の軒先にも、赤いお祭り提灯が下げてある。女の児も男の児も大柄な(白地で紺に染めた)浴衣を着ている。星空の下では、夏の夜の暖かい波がひたひたと浜辺に打ち寄せていた。こういう自然の美学が、まだ日本に生き生きと保存されているなどということは、ドイツの諸君には思いもよらないだろう。お祭りの笛や太鼓の音は、数日間もあちこちから聞こえてきた。神輿の巡幸もあった。これはまたスポーツの興奮そっくりである。top

1935,8,4(日)日本の家屋の第三章「夏」を書き始めた。そんなわけでこの数日はゆっくり自然を楽しむ暇がなかった。それにまた戸外はひどく暑いのだ、だから午後遅くなって、陽がすっかり傾いてから水浴みをすることにした。緑の山々と相映発する澄明な海、漁船、銅色に日焼けした漁師や子供達、浜でよく見かける立派な体格をした筋骨の逞しいこの人達の姿は、まるで青銅像そっくりだ。小林山に帰る。 

1935,8,600上多賀へ
1935,8,7(水)いま多賀の大工に頼んで、椅子とテーブルとを松材で造らせている。もともとここに滞在している間だけの使用に供するつもりであるが、日向氏は私達が多賀を引き上げる際には、これを自分に譲ってほしいと言っている。例の田舎家の広間に使いたいのだそうである。私も近頃は、家具の設計ばかりを職とするようになった。
村は七夕祭りで美しく飾られ、行き来の人々の足を停めさせる。暗褐色にくすんだ家々の前には葉をつけたままの青竹を立て、それに吊るした短冊形の白紙や赤・黄・青などの色紙には、家族や親しい知り合いの名前が認めてある。(小林山のには私の名も書いてあった)清楚な竹葉の間に吊られた細長い色紙は、風にひらひらと揺れ、また明るい陽光に映じてこの上もなく美しい。こういう七夕の飾りが、村の通りにずらりと並んでいるところもある。
七タは牽牛、織女の両星が一年中でいちばん接近する晩である。しかし明日になってこの両つの星がまた互いに遠ざかり始めると、これらの飾り物は海や川に投げ込まれて、再びもとの元素に還るのである。こういう美しい行事に無縁な欧米人は、甚だ美しからぬ人々というべきであろう。

1935,8.15(木)日本の家屋・第六章「諸神と半神達」を書き上げる。

1935,8.16(金)日向氏は、熱海の家の増築(地下室)に必要な材料の購入費を大工の佐々木さんに渡した(これは当然のことだ)。しかし日向氏は、その金額を、まず図面について決定すべきだということを知っているのだろうか。吉田(鉄郎・建築家)氏は「日向のいいようにさせておきましょう」と言う。確かにそうしておけば、当座のいざこざを避けることは出来るだろう。しかしまたその為に、あとで嫌なことがおこらないとも限るまい。東京へでかけた。夜、熱海へ帰る列車のなかで、右方に富士の姿を、また左方に海上の月を見た。熱海から上多賀へのバスは、日本の『リヴィエラ』に沿って走る素晴らしい車行だ。旅行をして三等に乗ると、いつも気持ちのよい体験をする(二等は一無愛想というほどではないが、ひどく取り澄ましている)。私は日本の人達を愛する、それも三等車に乗るような人達こそ最も好ましい。しかしこういう人達が西洋へ旅行するようなことはまずあるまいから、ヨーロッパの諸君にその好ましい人柄を見てもらうわけにはいかない。この人達は、万事によく気がつき、物腰もやわらかである。三等の乗客達の服装は非常にまちまちで、昔ながらの着物を着ている人がいるかと思うと、ひどくモダンな身なりの人もあり、その中間に新旧様々の服装がある。富士参りの人達は、さすがリュックサックを背負ってはいるものの、やはり昔風の白木綿の簡素な行者姿である。

1935,8,17(土)近くの突堤のうしろに釣り堀があり、そこに一頭の大亀がいる。
背中に緑色の海草が附着していて、まるで年を経た海中の岩さながらだ。小魚が寄ってきてその藻を食べている。この亀は海水の取入口のそばにかしこまって、いつも頭をもたげているのである。もう一つの釣り堀では、大きな魚が釣り針の餌を心得ていて生餌にしか飛びつかない。ウシノシタに似た平たい大きな魚が、海水の出入りする水門のそばまで来ては、外の広々した海へ飛び込もうとするが、この「強制収容所」にも厳重な格子が設けてあるのだ。打ち寄せる波が、岩に砕けて飛沫を高く上げている突堤のそばで、大勢の子供達がいったん釣り上げた魚の鼻面へ息を吹き込んでは、また無造作に海の中へ放っていた。人の性は善なのだ。日本の海は、ドイツの北海やバルト海のような海の香りというものをもたない。その代わり長い波が沖の方からゆったりと寄せてきては岸に打ちあげ、返す波とあとから寄せる波とがからみ合う様子は、怒濤とはまた違った趣があって実に壮観である。
秋が来た。この四日間というものは、のべつに大雨が降り続き、肌寒いほどであった。しかし今日はすっかり晴れたので、私達の家のすぐ傍に建てかけている小家屋では、大工さん達がせわしげに釘を打っている。そのほか蓄音機の音や子洪達の騒ぐ声など。いつも晩になると鼠どもが、薄板を張った天井裏でスポーツ大会を催し、それが夜っぴいて続くのである。だが今度は、私達の撤いた殺鼠剤でとうとう胃をこわしたらしい。女達は、畳の合わせ目に棲んでいる蚤にすっかり閉口している。一日向氏は、私が熱海の増築家屋の日本間に桐の天井板を選んだら、その素晴らしい効果を認めながらも、この材料の使用をどうしても肯んじない、安物の下駄を思い出すというのである。同氏は自分でも「迷信」だと言っているが、やはり気になるらしく、吉田(鉄郎・建築家)氏に電話をかけて加勢を求めている。
近頃、大工の佐々木さんと2時間ばかり話した。佐々木さんは英語を一言もしゃべれないし私は日本語をまるっきり話せないといってよい。しかしすぐれた建築と同様に、図面と鉛筆とは国際的なものであるから、どうやら話を通じさせることができた。佐々木さんは、気性のよい慎重な人だ。とにかく今度の仕事を立派に仕上げる(私はそうできると信じている)ためには、少々変妙な日向老人の気時ちをよく呑み込んで、程よく取り扱わなければならない。今度でも、仕事の良否を決定するのは、お互いに親切な気持ちをもつことである。さる寺の住職は、長男が生まれると直ぐ東京の親戚へ預けてしまった。この子供は、気の毒に兎唇なのである。僧侶の子供には、不具者が生まれてはいけないことになっている。それにまたこういうことは、お寺で領布しているお守りの売れ行きにも影響するのである。

1935,8,18(日)寝る前にひどく甲高い声で「歌う」蝉を聞いた。すぐ近くらしい、---いや、多分部屋の中だろう、耳をつんざくような声は、少なからず神経にさわった。戸外では金属性の声で歌う虫、日本人はこの声を鐘の音にたとえている。蝿のうるさいことは言語道断だ。蚊帳の中に入ってでもいないと、一瞬も落ち着く暇がないくらいだ。しかしまた蚊帳の中に入って寝ていると、エリカはひどく蚤にさされるのである。top

1935,8,190(月)日向氏が上多賀海岸へ移築中の家を見ていると、日本のすぐれた伝統的手工が、もうすっかり堕落してしまったという感を深くする。例えば、藁葺屋根の二つの傾斜面が接する箇所(谷)を藁で凹形に葺あわせないで、この部分の藁を谷に沿って切り落とし、下にブリキ板を当てがっている。竹を横に並べた屋根棟は確かに見事であるが、棟の両端に付した千木風の飾りはもういかものである。また建築的な意味での構造らしいものは何処にも見当たらない。大工は、日向氏を安心させる為に巨大な(背いが四十センチ、厚さが三十センチもある)梁の両隅と柱とを薄い板金で繋ぎ、ネジで締めつけている。諸方を筋交い材で補強してあるけれども、これはやがて壁を塗り終えると取り払われるのである。しかしこの薄い壁が、構造といえるだろうか、建築主が自分で指図したという箇所にしても、まるで児戯に等しいものだ。古い家を移築するにも、やはり建築家が必要だということは、これによっても明白である。上野君から来信----今朝私は五時半に起床しました。庭には露がいっぱい降りていました。秋は先触れもなく近づいてきます。私は庭の雑草を抜き取りました。雑草の生活力はたいしたものです。これに反して好ましい草木は実に弱い---人間の世界と同じです。蝉は終日鳴いていますが、やがて死ぬでしょう、しかし来年の夏にはまた鳴きだすのです。

1935,8,25(日)今日は日曜日なので、私達の家はお客でいっぱいだ。高村氏(私の著書の出版者)、平居(均)氏(翻訳者)、と同氏の助手、若いお医者さんの牧氏と二人の学生などである。突堤近くで水浴みをする、泳ぎながら自分のまわりに友人達の頭がぼかりぼかり浮いているのを見るのは楽しいものだ。家へ帰ったら玄関先で思いがけなく京都の下村(征太郎)氏に出会った。上京の途中わざわざ上多賀へ立ち寄ってくれたのである。
いつもながら親切な心遣いだ、一時間半ばかり話す。下村氏が帰ってから、今度は発動機船で共産村の初島へ向かった。この島には僅か45戸(世帯)しかなく、子供は長男を除いてすべて「日本」へ送りこまれるのである、ところがこの日本は既に多産で悩んでいるのだ。島では全体の収益を頭割りで均等に分配するものだから、自然励みがなくなり、皆怠け者になってしまった。そして今では賃金の廉い朝鮮人の労働者を100人も雇って漁業に従事させているそうだ、一ただしこれは日向氏の話しだから、確かな筋というわけにはいかない。長い波のうねりの上を発動機船で乗り切るのは、すばらしく快適だ。初島の岸や岸辺の岩に打ちつける大きな波が、白い飛沫を高くあげて砕け散る様は遠方からもよく見えた。船を島にやや近づける。海洋から初島の周囲へ打ち寄せる波と返す波とが寄り合うと、深い波谷と高い波峰とができて、海の秘めているすさまじい力が、この上もなく美しい形をとって表現される。緑色の透明な波の山は、私達の頭よりも遥かに高く、やがてその長い波頂がゆっくり一斉に崩れると、波はなだらかな曲線を描いて後ろへ退くのである。長い巨大な波をやすやすと動かす海の力は驚くべきもので。
発動機船を操っている漁師達は、この様子だと初島への上陸はむつかしかろうと言っていたが、案の定進路を島の方へ向けた途端に、数メートルも深い波谷が眼下にあらわれ、もうこれまでかと思わず肝を冷やした。初島上陸を断念して船首を熱海に向けると熱海の坂道を歩いている人影が小人のように見える。飽くまで青い波は、海岸の岩に砕けて白く飛び散っている。海気がどんよりと立ちこめ、唇に海の香りを感じねようやく上多賀へ戻ったが、波が高くて海水浴場の桟橋から上陸することができなかった。

1935,8,260(月)小林山に帰る。

1935,8.270(火)熱海ヘ

1935,8,28(水)暑い日が続く、身体中どこもかしこも汗だらけである。
晩方になるときまって山から熱風が吹き下ろす、しょうこともなしに寝ころぶと、いやましに(ますますの意味)汗が出る。風は蚊帳を揺るがすが、少しも涼しくならない。天井裏では鼠どもが負けず劣らず走り廻っている。こういう親しみがたい状態は気分をこわすに違いない--日本で最も苦痛な季節だ。眠り病がはやっている、その原因が炎日と過労とにあることは、私にもよく判る。水浴みをする、海水はガラスのように透明だ。海水浴場の飛び込み台から見おろすと、5メートルも深い海底が手に取るように見える。海面近くにヒトデが浮かんでいるし、海中には美しい縞模様の小魚が真珠のように輝きながら泳いでいる、大きな魚の群れ--まるで自然の水族館だ。小さなクラゲに刺されると、焼けるように痛み、皮膚に赤い斑点が残るのである。top

1935,8,31(土) 熱海日向邸の増築は、設計通りの板材が市場に無いというので幾箇所か模様替えをしなければならなかった。大工の佐々木さんは、私の設計した床の間では、どんな形の掛け物にも向くというわけにはいかないと言ったそうだ。そこで日向氏は自分の居間にある床の間について掛け物の講釈をはじめたが、そこへ掛けた軸ときたらどうしようもないいかものであった。『私はこの人の仕事をするのが嫌になった』。日向氏がロ癖にしている「渋い」とか「味」とかいうのは、実はまったく内容の空疎な言葉にすぎない。そうだとすると、私達がいま精出してやっている仕事も意味がないということになる。所詮は味もそっけもない老商人なのだ。震災記念日の前晩というのに地震があった。

1935,9,2(月)私たちは間もなく上多賀を引き上げる予定である。それまでの数日はどうか最もよい日であってほしいものだ。今日はとりわけ海景が素晴らしい、水は碧一色に輝いている。沖からゆったりと一文字に寄せてくる波、他国の海では到底邸見られない壮観だ。海上には発動機船が二隻ずつ並んで網を曳いている。どの船にも赤銅色に日焼けした屈強の漁師が30名ばかり乗り込んでいて、唄を歌いながら大きな曳網で鮪漁の生餌に使う鰯を捕っている。(先だって初島近くまで船行きしたとき、2メートルもある一尾の大鮪が背鰭を波間に立てで泳いでいるのを見た)。私達はてんでに海へ飛び込んで、小舟が機艘となく漂っている近くを楽しく泳ぎ廻った。世界は美しい。緑色に輝く海は一個の大きな真珠貝さながらだ、えも言われぬ気分である。夕方になると潮騒は聞こえなくなり、岸に打ち寄せる波の音だけが高まってくる。コオロギは浴室の近くで夜っぴて鳴いている、雀の囀り(さえずり)そっくりだ。便所の窓には小さなかわいい雨つくねんと座っている。この辺の小舟には、錨を掛けておく為の極く簡単な架台が作りつけてあり(舳先へさき)、錨はこれから垂直に海底に降ろされるのである。最後部には船の幅よりもやや長い横材が舷から左右に突き出ていて、その一方の端に2本の短い柄模様の棒が狭い間隔で立ててある。これが棒受けで、漕ぎ子は櫓の上部を両手で握り、これを転がすようにして前後へ動かすのである。熱海一多賀間の海岸に沿った自動車道路から眺める景色は、『リヴィエラよりも美しいだろう』素晴らしい景色だ。漁師の家の入口に、大きな広い葉を二枚敷き、その間に一束の線香が燃えていた、数軒見かけた。

1935,9,6(金)日向氏はここの突堤へ信号燈を付けたいという(日向氏が移築中の建物の前にあたる)。熱海の日向氏の増築はどうやらうまくいきそうである。
1935,9,7(土)日向氏と一緒に発動機船で伊東へ舟行した。テングサ採りの小舟がたくさん海へ出ていた、舟から海中へ飛び込んだ海女は巧みに水を潜り、テングサを手にしてまた泳ぎ上がるのである。伊東では、立派な旅館で豊富に中食をとり、温泉に入った。夕方帰宅したら神戸で貿易商を営んでいる今村ライフ(Reiff)という人が私達を待受けていた、今村氏のお父さんはドイツ人、お母さんは日本の貴族の出だそうだが、本人は英語しか話せない、しかし感じのよい人である。私達の家に一泊した。
1935,9,8(日)日向氏来訪。移築中の田舎家をいかもの建築だとする私の批評を真面目に受け取ったものと見え、派風を取り除き屋根をもっと低くしたほうがよいという私の意見通りに模様替えしたいという。ところが大工のほうでは、いまさら変更は不可能だとして、聞き入れようとしない。私は自分で大工とじかに話し合うのがよいと思った。
やがて棟梁が図面を持って私のところへ来た、しかし結局は私の言い分を認め、必要な模様替えは今からでも出来るといった。ところが棟梁は、日向氏と話しているうちに次第に興奮してきた。察するところ「外人」からそういう話がでたのを心外におもっているもののようである。日向氏は英語で私に「やっぱり元通りにしておくほうがよさそうですよ」と言うので、私も同意した。夕方熱海へ行く(上多賀に来てから8回目である)、日向氏が自邸で私達の送別桧を催してくれたのである。明るい月影が海面にきらきらと光っている。海上には樹脂の漁火を燃やした(魚をさそうためである)漁船。芝生を敷詰めた架空庭園は(この下に私の手掛けている増築部分がある)低い壁で限られ、その向こうに海原が無限に広がっている。タウト ここは詩人にとってまことに好適な場所です。
日向氏 ところがあいにく私は詩人どころか取るに足らない小実業家でして。夫人 お国を離れていらしってホームシックにお羅りになりませんか。タウト いえ、いつでも現在いるところが一番良い所です。夫人 私にはそんな高尚な哲学は判りません。日向氏は平生口癖にしているらしい通俗的処生訓を私にも聞かせた、「望みというものは、そればかりにかかずらわないほうが、却って旨く実現するものです、」実際、私にしてもこれまでその通りだったし、またこれからもそうだろうと思う。夜遅くバスで帰る。途中の『リヴィエラ』街道がすばらしく美しい、多賀村で降りてしまうのが惜しいくらいであった。top

1935,9,9,(月)上多賀を引き上げる日。エリカと突堤のそばで水浴みをした。この暑さにまた引っ越しの荷造りだ。

1936,4,2(木)病臥三週目にして床から起き上がることができた。---
エリカの思いつきで、また上多賀へ来ることになった。多賀は太平洋岸の入江に臨む漁村で、昨夏をここの貸別荘で過ごしたことがある。他所の港から出漁した船の漁師を宿泊させる『おばさん』の宿の二階二間を借りて、暫く滞在することにした。今も階下には、鰯漁に来た大きな漁船の乗組員が8人泊まっている。

1936,4,3(金)朝早く浜から法螺貝の音が聞こえてくる、すると階下に寝ている漁師達は一斉に跳び起きて、それぞれ所属の漁船に乗り込むのである。その物音で眼を醒ました私は、早速ニムロド療法を姶める。床の上に半身を起こして、大きな布を頭からすっぼり被り、皿の上の薬剤に火を灯して、そこから出る蒸気を鼻と口とから吸い込むのである、
はたの人達から見ると、ちょっと気違いじみた図であろう。布を被るのは、薬から盛んに吐き出される蒸気を逃さないためである。私は宿の人達から「おじさん」と呼ばれている。
この老いさらばえた「おじさん」は、身体をまっすぐに保ったまま、階段をゆっくり上り下りする、誰だってこれ以上ゆっくり歩くことは不可能だろう、---自動車から降りて列車に乗込むヒンデンブルク将軍そっくりである。階下に寝泊まりしている漁師達は実に静粛で模範的だ。天井裏で、夜っぴてスポーツに余念のない鼠共はひどく長い足をもっている?

1936,4,8(水)この7週間というものは、何処で何をしていたのか、自分ながらはっきりしない、まるで夢でも見ているようだ、しかしこの夢は必ずしも快いものではなかった。女中のヤスコ(高崎から同伴)さんは、もう日本料理もドイツ料理も一通りできるようになり、今では私達の娘同然である、今度私達がここへ来るについても、喜んで私達といっしょに来てくれた。私は畳の上に寝そべって、港や突堤、入江、漁船、それからまた海や山を眺めながら、朝食を食べたり、午後にはコーヒーを飲んだりする。海気は身体によいらしいいが、何分ひどく疲れているので立居が臆劫である、こんなに長く衰弱が続くと、まるで小さな子供みたいになるものだ。日本のリヴィエラともいうべき当地では、いま桃と桜とが満開である。濃緑の葉の中には黄金色の蜜柑が美しく輝いている、いかにも装飾的な点景だが、実はまだ固くて酸っぱい、それでもまだまだ春になりきっていないのだ。時々ひどく寒い日があり、冬のオーヴァを着たうえ毛糸の下着を三枚も着込むことがある。石油ストーブで部屋を温めても、冷たい隙間風が遠慮なく入りこんで、ストーブの炎を吹き立てるのである。それにこの数日は、昼も夜も強い風が吹き続けて、家ががたぴし揺れた、その後ではきまって海岸に高波が打ち寄せるのである。

1936,4,10(金)私は今日、稲取をえて谷津温泉に平居(均)氏を訪ねたとき、さまざまと感じた。道路の左側は美しい海に沿っているが、反対の側には切り崩したままのすさまじい断崖が立ち、ところどころに露出している大きな岩は、今にも落下しそうである。やがて寒疎な業林が点在し、それに続いて樹木が一本も無い荒れ地が痛々しい姿をさらしている。この分では、日本人による日本の発見は、まだまだ遠い将来のことだろう。上多賀の宿から見える海浜の神社らにはブリキの鳥居が立っている、至る所で乱用されているブリキは「モダン」日本の象徴だ。1936,4,12(日)上野君が、群馬県工芸所長として高崎に赴任する途中、ここへ立ち寄ってくれた。同君はこれで、身分を保証された官吏の地位を得たわけだ。私は上野君がこの新しい任務を立派に果たすことを信じて疑わない。またか私としても、同君をきわどい状態から救し得たことを非常に嬉しく思っている。上野君にとっても、この地位は決して悪いものではあるまい。上野君と一緒に熱海へ行き、日向邸の増築現場を見る。色彩や用材の処理について遺憾な点もいくつかあり、その為に高雅な趣味がそこなわれる箇所は是非ともやり直さなければならないが、しかしこうして見ると、世界的な好趣味というものは、世代に媚びる日本主義よりも遥かに重厚であることがよく判る。

1936,4,25(土) 昨日は小舟を仕立てで沖へ漕ぎ出てみた。海は比較的穏やかだったが、それでも波が大きな美しいうねりを見せていた。三隻の漁船に70人ばかりの漁師が乗って大網を曳きあげていた。三隻が次第に網を「コ」の字形に組むと、そこへ2人の漁師が一隻の小舟を漕ぎ寄せて、網の中で跳ねている獲物をすくいあげては自分の舟にさっと放り込む、そのとき大小の銀鱗が陽の光のなかできらりと閃くのである。やがて作業が終わると、漁船は漁場を離れ去る、いかにもエキゾティックな観物だ。おお昔の海賊物語は、こういう情景に構想を得たのであろう。今日は嵐である、豪雨と烈風のなかで、家ががたがたと揺れている。突堤に打ちつける波の音がすさまじい。白い飛沫をあげて崩れ落ちる波は突堤を越しているらしい。大洋の音楽はまた絵描きでもある。小林山から仕立てについてきて、なにくれとなくまめに働いている女中のヤスコさんは、もう私達の娘以上だ。また水原氏は、私をまるで親のように慕って、いじらしい手紙をよこすのである。こういう親しみは、ヨーロッパではありえない。しきりに蛙が鳴いている。明日荷物をまとめて東京へ発つ。top
建築家・タウトへ
木下杢太郎 へ


当時の多賀風景
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