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木下杢太郎とタウト

木下杢太郎(きのしたもくたろう)

 日本の重要文化財に指定された(2006,7,8)旧日向別邸地下室(離れ)は、熱海市春日町の南傾斜面にその建物が存在する。ヨーロッパで建築家としで活躍した生粋のドイツ人であるタウトは、祖国ドイツの政変に対抗しきれずに、1933,5,3日本に来日する。滞在3年と僅かな月日を日本で過ごしたタウトだが、遺作となった母国ドイツで設計したジードルンク(労働者向けの集合住宅)群が、2008,7,8ドイツ・シュツットガルト新聞は、当該の馬蹄形ジードルンク他が、ユネスコ世界遺産のリストに載ることになった
旨報道した。6つのジードルンク群は20世紀の初頭における名作として評価されたものです。タウトは建築分野だけでなく、芸術にも並外れた才能を有し、日本国内の多くの著名人との交友が改めてタウトの評価を高めております。京都桂離宮の評価はあまりにも有名ではありますが、多くの人脈のなかに静岡県伊東市出身の木下杢太郎(太田正雄)との出会いを改めて紹介致します。(タウトの日記・Japanから抜粋)

1933,11,10(金)久米氏(建築家)と上野駅を発って仙台に向かう(仙台工芸所の嘱託として赴任)。---仙台駅のホームには国井(喜太郎)工芸所所長夫妻、東北帝大の児島(喜久雄)教授、ほか数人の職員が出迎えてくれた。駅前のホテル(青木)の一室で簡単にお茶を飲む、このホテル万事日本風である。私達(タウトとエリカ夫人)に当てられた部屋は、このホテルとしては一番大きな十畳の間で、諸道具はあとで取揃えてくれるという。仙台の街を散歩する。重苦しいなんとなく澱んだ空気だ。田舎くさい都会である。栄えない町の料理屋で一緒に夕食(西洋料理)をとる。両氏(国井、児島)の話によると、工芸指導所(政府の管轄)は今すっかり行詰まっているから、私によろしく指導してもらいたいということだ。三越百貨店で買い物をする、そこの二階に大学の教授や学生たちの描いた絵の展覧会(採光会展覧会)が開かれていた、こういう素人画家達の作品は概して素晴らしい質をもっているし、また本職の画家の誰れよりも遥かに気時ちがよい、匠気がないからだ。
大学教授達の作品のなかには、或る法学者(勝本正晃)のもの、児島教授のもの(これは非常にすぐれている)、医学者太田教授(木下杢太郎)が唐紙に描いた動物や魚の絵(実に優秀だ)などがあった。これが本当の仙台なのであろう。1933,11,23(木)鈴木君(児島教授の助手兼通訳)と一緒に太田教授(木下杢太郎)を訪ねる。太田氏は医学者であるが『木下杢太郎』という筆名の方が通りのよい文筆家で書も巧みである。教養の高い人で立派なドイツ語を話す。ヨーロッパや中国の文化に精通しており、芸術史や芸術上の動きについて多くの---恐らく多すぎる---理論をもっている。展覧会出品作について談笑---。猫と鯉との色紙を一枚ずつ頂戴する。
愛する祖国---ドイツと日本---について話がはずむ。真面目で、すぐれた理解力をもっており、日本でもっとも立派な人物の一人だ。親切かつ典雅でしかも多力である。

1934,3,1(木)仙台の清々たる人達に立派な料亭(かすが)に招かれる。国井所長、児島喜久雄、太田正雄(木下杢太郎)、小宮豊隆(ドイツ文学)、勝本正晃(法学)の諸教授。国井氏を除いてはみなドイツ語を話し、いずれも選りぬきの人達ばかりである。宴飲半ばに席画が始まる、まず太田氏が絵筆をとると、ほかの人達も描かずにいられない気持ちになってくる、---私までがそうだ、それに女中さんやゲイシャ達が交わるがわる色紙を差し出してはせがむのである。描いた画を集めてみると展覧会さながらである。
一番立派なのは児島氏の作品だ、タッチはしっかりしているしまた観察も的確である。太田氏のはスケッチをもとにして描いたもので、非常に達者だ---それからまた食事が始まる。その前に酒を沢山飲んだ。女中さん達の立居振る舞い実に気もちがよい、まるで自分達が主人役のように手際よく捌いていく(ヨーロッパはこれに学ところがあってよい)レコードに合わせてゲイシャの踊りが始まる、---そのあとでとうとう私もワルツやフォクストロットを踊ってしまった(そんなに騒いでは家がもつまいなどと言われる)。すっかり疲れてお開きになったのは夜中の一時半であった。  タウトの日記Japan 篠田英雄訳より 株式会社岩波書店


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